普遍性について――現代アートはもう概念そのもので「女神まどか」なんです。オタクだって救えるんです。【謝罪文☆付き】

ポモソーシャル宣言2010

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まず、謝罪の前に、ふたば及び、オタクの皆様にお知らせしたいことがございます。

この度、オタクサイドに理解して頂きたいのは、
“僕がここ1週間仕事が忙しく、風俗に行けていない”という事実であります。

そんな状態で僕がオタクのあられもない振る舞いを見れば、安全に痛いやつらとカン違いし、
パーロンしたくなることは、不可抗力としか言いようがなく
「あらあら、いいですね。」と、最終的には炎上1回ツェーキジ(1記事)でなんとかなるかなと腹をくくった所存です。

その旨、何卒ご理解くださいますよう、この場を借りて切にお願い申し上げますと共に、
今回の一件は、温かく見守って頂きますよう、重ねてお願い致します。


                              オタク兼アーティスト・世界の末代葉児

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オタクはめちゃめちゃにホロン部

 さて、ページ頭で禊ぎは済ませたので心機一転、またオタクとアートについて批評しようと思います。はてブや米欄の見渡すばかりのお誹りから推測して、前回さらっとしか触れなかったところにまず補論を付け足します。ここが理解できるだけで恐らく前回の記事の8割は把握できるかと思います。

 この『商業性』という用語はアート界隈において恐らく僕が初の使用です。今まで読んだ論文や書籍には無かったものの諸概念を還元させる意味で使っています。*1だいたい一般人が素朴に使う感じの「商業性」という言葉と意味は大差ないのですが使い方がちょっとひねくれてます。なのでアートにリテラシーのある人からすると違和感があるかと思いますが、あくまでこの記事は初心者〜上級者向けなのでご容赦を。*2


オタクとアートのおさらい

 簡単に美術史と前回のおさらいです。

 アートは例え何世紀遡ろうと、21世紀になってからでも視覚に頼った表現です。カウンターとして全身で体験するようなインスタレーションもありますが、大雑把に言ってやはり視覚です。アートがまだ"芸術"だったプレモダン(19世紀以前)では、写真の登場まで見たままの視覚情報をリアルなまま絵画に閉じ込めることが課題で、写真以後も大雑把に言ってやはり主観的な視覚の表現ではありました。ここで主観的な、というのは例えば印象派がどれほど現実と乖離した鮮やかな絵を描こうと自らのインプレッションの表現であれば作者の主観として留まるように、またポロックやステラのような抽象表現主義*3においてさえ否定できない主観の介在、見る角度やまた照明の具合など諸条件が紛れ込むのです。この時まではアートにおいても表層が本質と同義でした。

 前述のように主観が紛れ込むのであれば、それは純粋では無いので基準として使えません。要するに持ち主によって誤差の出るような温度計のことを果たして温度計と言っていいのか、純粋な温度の計測には使えないのではないかという問題意識です。なので主観を超えたところ、「観念」に基準がシフトします。

 例えばデュシャンはただの便器であっても「文脈」*4によって――「なぜこれがアートなのか」という説明によってどのようなものでもアートになり得ることを告発しました。*5つまり主観を超えた「観念」が表層よりも上位のヒエラルキーに置かれるようになったのです。ここからアートは全て、オタクの人達が"大っきらいな"「コンセプチュアル・アート」になります。


 さて、重苦しいアートの話を置いてオタクの歴史を振り返ってみましょう。

……あ、そんなものありませんでした。気にせず次にいきます。


「アニメはただの絵」ですらない論証。アヴィニョンの娘たちちゃんがこっちを見ている!

  ぬるオタどもは「基準なんていらない楽しければいい!」なんてブヒブヒ言っちゃうけれど、こういう思考の停止を起こさないようになるべく優しく説明する。
 オタクの人はたぶん印象派までは理解できるはず。なぜなら当時の印象派は金持ちのパトロンから離れようとするアヴァンギャルドだったから、そのために新しい金蔓として市民に媚びて売れ線を狙っていた部分がある。

 ちなみに、アートに詳しい人に「アートにめっちゃ興味あって、印象派展に行きたいんです!」って言うと喜ぶフリをされます。内心で「こいつチョロいな」と侮られるのです。もうこれ鉄板なので女子力を上げたい人は覚えておくといいですよ。

 話を戻して、印象派からその先にいるような例えば抽象表現主義ポロックやステラになると問題意識を共有できていなければ正しく評価できない。絵の具をただまき散らしただけの作品や、あるいはミニマルな白線を黒板に描いただけの作品がなぜ重要なのか。前章でも軽く触れたように「基準」の策定という問題。もちろん後々「基準」そのものを問題視するけれどもとりあえず置いておく。(カオスラウンジ論としてそのうち、たぶん語る)
 重要なのは普遍性。柔らかく言えばどんな時でも誰にでも理解可能なこと。*6この普遍性を求めるということは表現の根本に関わってくる。抽象的で哲学的な話をすると、例えば何かを表現する時に相手のことを想定しない表現はありえない。りんごの絵を描こうと思った時には自分だけでは無くて他人が見てもりんごに見えるよう描かれる。あるいはユニコーンのような架空のものでも同じ。もっと極端に絵の具をまき散らした意味不明な絵であっても、「絵の具をまき散らした意味不明な絵」としての理解を想定した上で描かれている。どんな表現も完全に100%まで独りよがりに行うことはできない。
 表現作品を評価する基準とは、大きく言えばこの普遍性になる。何が最も普遍性のある基準になり得るのか、という時代ごとの葛藤がそのままブレイクスルーなアートの発展を意味する。例えば19世紀であれば写真の登場によってリアルさは基準になり得なくなり、20世紀前半でデュシャンによって視覚は基準になり得なくなったように。
 その上でフラットな視線からポロックやステラを評価するならば、少なくとも当時においてその「基準」に対して最も『誠実な』回答を示した。しかしモダニズムが『未完』のまま過ぎ去り現代アートになった瞬間に、普遍性の追求というレースにおいて後れを取りただの遺物と化した。今となっては何の価値も認められない。モダニズム絵画は「ただの絵」。


 それではオタクにおけるこのような表現根本への問題意識を語る。

……あ、そんなものありませんでした。気にせず次にいきます。


↑ 印象派が好きそうなちょろい人

「楽しければいいんだよ!」→バカ・DQN 「普遍性を求め、みんなで基準を作ろう」→イケメン

 前章の内容を引き継ぎ、オタク絵は「ただの絵」ですらなくただ気持ち良いだけの麻薬やその類いであることが示された中で、どのような将来像や批評の可能性があるのか。再び「普遍性」というテーマで続けます。

 どうせ話について来てなさそうな中年オールドタイプ・オタクは放っておいて、僕らニュータイプのオタクが代わりに考えましょう!
 はい、そこ嫌そうな顔しない!それじゃあ友達と二人組つくってね〜。うわあああああああ(トラウマ)

 再開します。

 前章で意図的に語らなかった部分がある。「印象派以前」という史観をとった場合に見えてくる前時代的な世界について。基準らしい基準は無く、この近代的発想な「普遍性」すら生まれる前の世界。ここに強いて暗黒時代というレッテルを貼る。技術的進歩はあくまでも商業性に回収されパトロンを喜ばすだけのものだった。
 オタクの現状はここにある。たしかに技術だけで普遍性を求めることが可能な領域はある程度までならある。そして既に示された限界が抽象表現主義、フォーマリスムだった。どうあっても超えられないのがわかっていながら、コンセプチュアルな領域にまで一足飛びで昇華することもできない。欧米でこのコンセプチュアルへの移行という大事業が為されたのはそれ以前に「網膜的」だったアートへの退屈と疑義があったため。オタクにはそんな力なんてない。日本が敗戦した時から一歩でも進んだのだろうか?それどころか、歩いている方向の指標となり得る基準すらもないまま、半狂乱の貪欲な消費とその無根拠ゆえのエンドレスループだったのではないか。

 結局のところオタクコンテンツには食欲的に群がる萌え豚しかいないのだ。人間らしい理性的な人間は一人もいない。ブログや2ちゃんねるツイッターでもいいんだけど君たちの周りで「楽しければそれでいい」という"無根拠な理屈"を深く考察して、掘り下げている人っているの?いないだろ絶対に、広大なネットの海ですら一人もいない。あるいは素朴に相対主義っぽいこと言うくせに、一つの理屈としてこの無根拠を正当化するかもしれないがそれではただのカルト教団だ。力のある古参オタク教祖が「良い」と決めたものが密教的な共通理解で信者たちも「良い」と無理矢理に感じたことにされる。無根拠をそのまま正当化し絶対視するとはそういうことだ。一部の人間にだけわかるように作られ、わからなければセンスがないと断じる。それに比べればアートは誰にでもわかるよう普遍性を求められ、その「コンセプチュアル」の理路を追えば誰にでも理解し得る。萌え豚だから人間の言葉をしゃべれないってわけ?

 
 しかしながら同時に、オタクには途方も無い暴力性があるのは事実。ひたすらこの無根拠のループを極めに極め、蓄えられた力で魔女化して世界を滅ぼせるのではないか。現状ではまだ足りないかもしれないが、アートを取り込むにせよ反発し合うにせよオタク文化の続いている限りは可能性がある。
(流れでdisるけれど、中途半端に日本の暴力性を肯定するだけ肯定してろくに論証もせずほっぽり出した椹木野衣はぬるいと思ってる。)

売り豚と商業性、本当に正しい今期の覇権アニメは何か

 それでは、もしかして普遍性のある基準として「売り上げ」は極めて優秀なのではないか?という問題。つまり「売り豚」について語ろうと思う。恐らくこの売り豚の発生は日本にモダニズムが無かったゆえに、つまり普遍性を求めようとしてこなかった歴史ゆえに生まれた極論的カウンターなのだ。

 前章で触れなかったが「本当に良い作品は誰にでも伝わる!ワンピース最高!」ってマジで言っちゃう人の登場も、ここに起因している。

 普通のアニオタ、あるいはヤマカンや思想界隈でも手を焼く問題。誰一人として未だに正答を出していないのではないか?
 この「売り豚」は君らオールドタイプなぬるオタへの復讐心を滾らせている。彼らは革命を望んでいるのだ。
 彼らがニュータイプとして君臨したならばオタク文化は崩壊に進む。
 放置した責任をいったい誰が取るのか?

……ちょうど良い機会だ! 僕が「売り豚」どもを解体して三枚に卸してやる!!

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ということで次回の記事に続きます。


(普遍性についてだけで長すぎた。次はちゃんと『商業性』について論証する。)

*1:村上隆が「ビジネス」という言葉でアートを語っていたもののちょっと洗練されてないので「○○性」にまで還元。というか近い用語の使われている論文か書籍があったら教えろください

*2:あとアカデミックな界隈と心的距離感を感じてるので。じゃなきゃこんなブログやってない

*3:絵の具をまき散らしてみたり幾何学描いてみたり、実際には存在しない抽象的なものを描く主義。昔はすごい強かった。ちなみに世界一高い絵画はこのポロック

*4:この言葉の正しい理解は難しく、ほとんどのオタクが躓く。あるいは誤解したまま突き進んで半可通としてアート批判を始める。

*5:またデュシャンは「網膜的な芸術」という批判の言葉も有名です。

*6:ただしあくまで潜在的な話