『ハッキング』の時代 ――村上隆的ハッキングと宇野常寛的ハッキング

 村上隆は「スーパーフラット」を掲げてドメスティック(国内)な文脈を海外の文脈(アートのマーケット)に接続して評価を得ました。宇野常寛は「リトルピープル」を合言葉にポモソーシャルの中でどのような正義がありえるのかを説いています。問題意識は二人とも共通していて、個々人が意識を強く持とうと大きなうねりに飲み込まれてしまうこの時代の中で賢く強く生きていきましょう!みたいなことをたぶん言ってます。*1

 対峙しなければならない大きなものという仮想敵が海外アートマーケットだったり社会そのものだったり細かい違いはあっても基本は同じで、システム内での基準を分析して沿うように自分を最適化する。ちょうど構造主義の成果を実践に移したようなもので、レヴィ=ストロースが行ったように西洋中心主義な白人に向かって未開社会にすら同様の「構造」が見られることを告発し、基準自体をメタに問うという方法論を利用している。「マイナーな弱者」がどうしてマイナーで弱いままなのか、冷徹に見極め基準自体への問いかけにまで昇華させる。*2
 もっとも「本当に基準はあるのだろうか?」と懐疑する/させる方法といえばソクラテスの産婆術にまで遡って、現代的にはデリダ脱構築がその役割にあると言う話になるけれど煩雑になるので触れない。*3

 つまり「ハッキング」というラベリングを付けただけでやってること自体はそこまで突飛じゃありません。
 

芸術起業論

芸術起業論

 

ハッキングへの誤解

 まずハッキングという言葉自体だいぶキャッチーでウケが良くその分だけ誤解も多いように思うのです。受容論みたいなのを考えると、やはり日本自体がモダニズムを経てこなかったためだろうというアレな話に戻ります。日本は戦前から「マイナーな弱者」だったので形だけ欧米から借りてきて近代社会らしきモノを築いてきた。しかし日本のモダニズムはあくまで欧米からの承認欲求でしかなく何に対するモダンなのかが不在のまま、なんとなく今のポストモダンにまで来てしまったというわけです。
 教室の片隅に追いやられてしまったならやれることはそのままイジメられっ子として生きそのうち暴発を起こすか、ピエロとなっても受け入れられるべくお調子者ポジションを狙うかといったところです。*4あの戦争は前者の「暴発」で、その挫折と反省があるため後者のストーリーは受け入れやすいのではないでしょうか。
 また特に誤解されることの多い村上隆の例で言えば、海外が求めている"オリエンタリズム"*5に戦略として積極的に答えているという面もあるのでしょう。

奇形種の国の中で見にくい奇形の部分がことさら肥大化されて育ってしまったら、そりゃ見たくはないわな。目を背けたいわな、と言う事で、私が日本で嫌われてる意味はよく理解しています。自分自身でも猿回しの猿だという自覚もあるし、むしろそこに尊厳もある。
takashipom 2010/11/14 18:03:30

http://togetter.com/li/68872


 村上隆に関してちょっとした知識人からよく飛んでくる批判なのですが、これは決して"弱者ぶる"ような開き直りの安直さや、またあたかも村上隆自身が"オリエンタリズム"であるといったことは当てはまりません。この文脈間でのパワーゲームに安っぽい善悪の価値観を持ち込もうとするからねじれるのです。『リトル・ピープルの時代』はたぶんこのねじれを正面に受け止めた要請が仮面ライダーに見られるような複雑化した「悪役」のポジションであると指摘しているはずです。*6善悪の関係がフラットで限りなく希薄になり私怨と私怨の衝突のようになってしまったこのポモソーシャルで、それでも依然残っている強弱の関係という闘争の場面がまさに仮面ライダーのそれなのです。

 文化多元主義じみた粗悪な「みんな違ってみんないい」なんてこの強弱と善悪の混同から導かれたただの現実逃避なわけで、もしオタク・オリエンタリズムというレッテルを貼るならオリエンタリズムになり得ない方法を提出すればいいのです。強弱の関係が差別的であるという指摘は当たり前のことで、そんな何にでも当てはまるレッテルなんて無意味で無価値です。この人間め、とかレッテル貼りするようなものです。
「男性にとって女性が化粧をし着飾る行為は女性・オリエンタリズム
「人間が動物心理学やれば動物・オリエンタリズム
「外国人の前で日本人がナルトごっこしたらナルト・オリエンタリズムェ…」
とか本当に何も考えず適当な例を出してみました。たぶん批判は出ると思いますがこれらと村上隆との構造的な差異をどの程度ハッキリ論証できるのか、先に言えばそんなの不可能です。レッテル貼りの構造的には何も違いません。
 たぶんそれでも「日本像が抑圧的だ」みたいに批判を続けたがる人も多いと思うものの、元祖オリエンタリズムといえばこの人サイード。自身の後の転回のように異文化が混交した「ハイブリッド」な在りようが支持される流れになります。もう批判のバックボーンからして詰んでます。日本画やオタクカルチャーを海外の文脈に繋げること、というのはまさにこのハイブリッドと言っていいはずです。あたかも日本人らしさを消去すべきと言う批判側の方がよっぽど抑圧的なのです。*7

 信者が多そうなので具体名は伏せながら、よく対比で挙がるアーティストって正直まったくその良さが理解できないのですが。「理論派なのに海外では日本人に理知的なのって求められてないからねぇ〜」とか慰められながら未だにカントがどうとかうだうだ語ってる浅田彰の茶飲み友達とか、わしの次元は108次元まであるぞ…みたいにドラゴンボールじみたインフレ起こしてる人とか、あんなのが村上隆よりも「強い」わけがありません。
 単純に、アートに対しての認識のフレームが違うんです。僕らはメタに見られませんなんて告白にどうして構う必要があるのか。まさに弱者ぶりっこです。ピーマンは苦くて食べられないし、モンティパイソンよりもホングコングの西原さんの方がおもしろい、みたいな子供舌の自慢ですよね。

@takashipom キングコング西野亮廣と申します。遅ればせながら「芸術闘争論」を拝読させていただきました。
「アート」と言ってしまう逃げ方に疑問を感じていたので、痛快でした。今後ますますのご発展と飛躍を、ご期待申し上げます。

http://twitter.com/#!/nishinoakihiro/status/106019635173916672

それではどこまでがハッキングなのか

 さて宇野を援用しながら村上隆批判に反駁したものの、この二人の「ハッキング」はけっこう違うものです。単純に見てもアートで行っていることと文芸また社会批評的に行っているのとではまた違うのですが、メタに見てもやっぱり違うのです。

 宇野の場合は「いま、ここ」から社会と繋がったままの状態から一石を投じる手法としての「ハッキング」。個別にある差別などの社会問題はどのように動こうと「誤り」を含んでしまい決断主義に回収されてしまいます。そのため何もしないという選択肢も肯定され得る、けれども宇野はそのぬるさを「セカイ系」として批判を加えました。つまりこのポモソーシャルでは「行動」か「非-行動」にせよとにかく最低限の決定はなされなければいけないものの、行った瞬間に誤謬の可能性からは逃れられないというわけです。
 そしてこの苦渋の自覚がただの決断主義的行為とハッキング行為を分ける分岐点になっています。この言説自体が既にそうであるように自覚からメタに立って発した言説は全て、他者の文脈に対してのハッキング行為になります。目の前の決断主義的な正しいことよりも「もっと正しいこと」という想定が『啓蒙的』であることを要請するのです。
 そしてこの「もっと正しいこと」を追求してゆく先に、差別などの個別の問題を置き去りにするほど強力なブレイクスルーとなる「社会変革のイメージ像」の提案を訴えているわけです。たぶん。

 対して村上的ハッキングの場合はまた事情が違っています。アートとしていわばビジネス自体、マーケットというシステムのシミュレーショニズム的な告発とその再現みたいなものが本質にあるためアートが社会に先んじてあり、ある意味でアート側から社会のマーケットへ横断してきたハッキングと言えるかもしれません。宇野的ハッキングとの共通点といえば初めに言及した程度の「文脈そのものへの問いかけ」くらいなもので、行為としては似ていてもその目的や射程はまるで異なっています。先述のようにアートでは個別の問題から離れているが、社会を包括しようと思ったらどうしても改めて語り直さなければならないのです。しかし冗長になるので宇野的ハッキングと村上的ハッキングの子細な比較や優劣についてはとりあえず留保しようと思います。

宇野的ハッキングの脱構築可能性

 正直なところ、宇野は果たして胸を張って自称するほど「ロマンチストで現状批判的」なのかというと懐疑的です。

 宇野先生はフラクタルが2話放送時くらいで糞アニメだと見抜いていたので案外芸術も語れるのではないかと思っていたのですが、でもよく考えたら表層的な文芸批評だけで芸術とかラディカルな問いは全くしてるところを見たことがない、というか「東方projectが〜」とか「政治と文学が〜」みたいに言ってたのに格好の「カオスラウンジ騒動」に触れていない。これってクリティカルに「政治」「文学(アート)」みたいな固有性に留まらなかった横断的な問題なのに。
 想像力が現実に浸食した時にそこで必然的に現れる摩擦問題、と僕はあの騒動を捉えているのですがこれはそこまで穿った見方ではないと思います。

 僕と宇野はそこまで遠くない認識のはずです。植民地問題や差別問題の根本にある文脈を想像力でしかないファンタジーな要素にまで還元した場合、萌えとかポップカルチャーとの差は無くなります。どのような社会モデルであっても現前する限り「暴力性」は逃れられないものの、より暴力性の少ない社会を目指すことはでき、それ故に宇野的ハッキングの理想は「革命」によってひっくり返してまた新しい「暴力多めの社会」を作るよりは「ハッキング」で今よりもちょっとだけ「暴力少なめの社会」を目指すべきなのです。
 であればカオスラウンジ騒動は果たして「どのように暴力性が少なくなったのか」を考えるのにうってつけだと思うのですが。ちょっと「宇野 カオスラ」とか色々とググってみたものの、黒瀬と仲が良いみたいな2ちゃんの書き込みを見つけたくらいでよくわかりませんでした。(もし語っていてもググって出ない程度じゃな……。)

 具体論の弱さは昔からよく指摘があったものの、抽象的な話としてもイメージ像の示唆までしかできていません。ちゃんと読んでないけど、インタビュー記事見ただけでもうバレバレです。細かな論証はまだ脳内ですら出来上がっていないのだと思います。そしてそのぬるさが宇野的ハッキングは村上隆的ハッキングをどの程度批判できるのかとして、そのうちハッキリするようにも思います。

そして村上隆宇野常寛、そして両者のオルタネティブにカオスラウンジが据えられると思っています。黒瀬は現代アートゼロ年代批評の中間のような位置なのでうまく止揚してくれるのではないかと信じています。*8


リトル・ピープルの時代

リトル・ピープルの時代

*1:読んだこと無いけど村上はビジネス書を書いてるし、宇野もなんか出版系ビジネスの成功譚みたいなのをどこかで語っていた。たぶん二人ともサラリーマン層のウケがいい

*2:宇野先生の「徹底的に内在することが超越に近づくという……」ってだいたいこんな感じの意味?術語感覚が怪しすぎてたまについていけない

*3:全く関係ないけど『日本的脱構築』みたいな吐き気を催す造語を作る人ってどういう神経してるの?

*4:宇野先生の提案はだいたいこんな感じですよね><

*5:用法解説:弱者ぶることの要請とまたそれに答えることの関係くらいのカジュアルな一般用法に準拠。一般人がオタクにオタ芸を要請することも含みそう。

*6:インタビュー記事しか読んでないからハズレてたらごめんね http://synodos.livedoor.biz/archives/1813624.html

*7:一応、普通のフェミ論やポスコロは実効性の話とかサバルタンとかもっと入り組んでいるけれど直接的には当てはまらないのでスルー

*8:ガリガリ君の当たりくらいには信じています