「玄米茶」は語ることができるか――「アート無罪」なんて初めからなかった

個別に対応するのがめんどうなので、改めて議論の整理とまた批判への反論を行います。
結論から言えば、僕の批判を玄米茶が身を反らす形で終わりました。
不毛だったと言っていいかもしれません。
特に「揚足取りじゃないか」みたいな批判をしている人にはそのように映ったかと思います。

続々と届く批判はわかりやすくしろって主旨ばっかり、というかそれ以外に実質的には無し。
この現代社会、言論だって顧客満足重視の時代です。
なので無駄なサービスは削ってよりニーズに合わせてゆきます。
めんどうなので敬称とか略すし、引用もちょっとくらいは改変しちゃいます。
細かな論証、ジャーゴンはググればわかる程度にまでしか掘り下げません。
暖かみの消えた競争原理の病巣です。

寄せられた批判も交えながら最終的に議論が「明らかにしたこと」を一般人にも理解できるよう、可能とやる気の限り頑張ります。



現代アートの構造

 事の発端も、また終結もよく見ればとても一貫した流れに沿っていました。根本的には「どのようにアートを問おうとしているのか」という懐疑です。このことは初めの方のツイートでも言及しています。玄米茶の問いかけは果たして適切に行われているのか。各所で披露していた「ぬるい」カオスラ批判の妥当性にも疑問がありました。


 現代アートはコンセプト性が上位にあり、下位に表現の技法があります。この辺りの細かなことは紹介されていた本なりを読んで理解してください。端的に言えば、筆で書かれた絵もコラージュされた絵も、写真も、彫刻すらみんな平等にアートとしての価値はありません。あくまでその媒体に付与される「文脈の継承と検証」がアートとしての価値です。現代アートが全てコンセプチュアル・アートなのはそういうわけです。


 http://d.hatena.ne.jp/AIYOUYOUNI/20110814/1313338686

 問題は終始、この以前書いた記事の焼き直しのようになりますが、商業性とコンセプト性についての"位相の違い"をどのように認識しているのかという点です。

「よく描くこと」と「よく売ること」

 大作の絵を1枚仕上げることと、iPhoneケースを大量生産するのではどのように違いがあるのか。

 前章で触れたようなコンセプト性と表現方法の位相の違いは、そのまま純粋な「正義」への問いかけと脱構築されてしまう現前の話に置き換えられます。コンセプト性とはつまり普遍性の追求、究極的な意味で「正義」への問いかけなのです。*1そして現前、発話や表現一般は例えどのように普遍性を追求していても立ち現れた瞬間に何らかの硬直的な解釈にはめられ、普遍的であったはずが個々人の利害間の対立、経済的な活動*2になります。つまり商業性から逃れる表現はあり得ず、例えば絵であれば描かれた瞬間から経済的な商品としての側面を持たざるを得ないのです。


 と、理論的な背景を先にを述べてみましたが話はけっこうシンプルです。現代的には「よく描くこと」は作品がよく売れるようにすることとイコールなのです。そのため「作品を商業分野に持ち出すのであれば、様々なルールや法に縛られる」というのは明確に誤りで、絵は描かれた瞬間、作家が筆を手に取った時から既に商業性を帯び、そして商業性間の対立つまり利害間の調停としてある「法」の関与を受けてしか描かれ得ない。「商業的にアートと言う商品を扱う上で求められる能力」というのはこの「よく描くこと」についての能力を意味し、ただの程度問題でしかありません。

 カオスラウンジが社会性に疎いことについて特に異論はないかと思います。前述のように「社会性と折り合いを付ける」というのも当然あり得た"表現方法"ですがそれを重視しませんでした。この意味はまるで大きくないもので、描かれた絵のキャンバスの大きさ程度にフラットなものです。そして玄米茶の問いかけ方は小さなキャンバスに向かうアーティストに「どうして大きなサイズで描くのか?」と問うような誤謬を含んだ行為で、その上相手が本当は小さなキャンバスにしか描いていないことを知っている上で発せられた「安全で卑怯な問い方」なのです。

 玄米茶の主張は一貫して「ダメかどうかではなく、質問をしている」というものです。その点で一貫しているゆえにむしろ矛盾を大きくしています。「問い」であることをよく強調していますがそもそも「問い」であるなら回答を望んだ上での対話を求めなければいけないはずです。果たして玄米茶は回答を望んでいたのか、という疑わしさがついて回ります。そしてこの点について批判をしたのですがスルーされてしまったように思います。「社会性」を重視しなかったカオスラウンジに対して、つまり小さな絵を描く人に「大きなキャンバス」について問うことは、最早それは「問い」ではありません。針小棒大に捏造したスキャンダルについてのただの晒し挙げです。炎上への積極的な寄与と言って、言い過ぎということはありません。

「許されないこと」と「許され得ないこと」

 「アート無罪」という言葉の使われ方がまるで理解できなかったのですが、最近ようやくわかりました。「アートが有罪かどうか」についてだと思っていたのですが「アートは犯罪をしてもよいのかかどうか」という問題意識らしいです。ハッキリ言ってこの問題意識から間違ってます。犯罪の意味は法に反することでしかありません。法自体は倫理観とまるで異なるものです。だから犯罪をしてもよいのかどうか、という問題意識は全くアート固有のものでなく万人が自然に持っているものです。そしてさっきも書いたように法を超えた純粋な「正義」についての問いかけが法を超越しているのは自然なことです。極論に聞こえるとは思いますが、法に反することがなぜそもそも悪なのかというより根本的な問いから始めなければいけません。この便利な「アート無罪」というレッテル貼りはただの思考停止です。

 またアートに対して「商業」とか「倫理」の枠にはめた語り方をしてはいけないのか、というと違います。そのような語り方をしてもいいのですが、それではそもそも「問い」ではなく批判にしかなっていません。アートに対しての問いにも関わらずアート以外のものであると断定した上で語るのであれば、その前提で互いに共通認識がなければあまりに一方的という誹りは免れません。無根拠なフレームの描き方について「無根拠である」と指摘することが揚げ足とりなら、誠実な問いかけなんて存在しないことになります。

 以上の批判は、決して僕個人のアート観の押し付けではありません。コンセプチュアル・アートなど多くの点で玄米茶と認識は共通しているはずです。そしてあくまでも玄米茶的言説内での「ぬるさ」というべき矛盾点の指摘です。恐らく玄米茶自身のアート観を披露してもらうか、あるいは法そのものへの問題意識が見られればよかったのですが、よくよく考えると、そういったより高い視点から何かを語っている様子を一度も見たことなかったなぁと思い出しました。果たして玄米茶はどれほど誠実に「問うているのか」、未だ見えてきません。

*1:普遍性の話については http://d.hatena.ne.jp/AIYOUYOUNI/20110818/p1

*2:エコノミー