現代アートやってる人間は脳味噌がマイクロでポップなんじゃないか?という懐疑論

 新番組の『どぅるじる!』が大変おもしろいです。
コンセプトが「ポストモダンな日常系アニメ」なのだから面白くないわけないのですが、もはや全てが日常とも言える中ですら「わたくしの日常」として生活を味合わなければならない苦悩がよく理解できます。
ポストモダンがどこまでも浸透し、人それぞれの多様性が剥き出しにされた世界ですら「日常」などのテーマは依然として残り続けることをよく告発できていると思います。
特に第一話から主人公の青年(固有名詞は暴力的なのでついてません)が革命運動に参加して投獄されるカットは作画的にも素晴らしい出来で、官憲が大張パンチを出したところからこれは良質な作画アニメでもあるのだなと気付かされたわけです。

 関係ない話のようですが、あとあと語ることに関係あります。ちょっとくらいは。

 さっそく引用です

 ところで「マイクロポップって」何だろうか。実のところ分かるようでわかりにくい。あえて言えば「マイクロポップの時代:夏への扉展」図録を見ると分かりやすいだろう。
 この年代のアーティストは前の世代からの流れを受け継ぎながら時代を反映して独自のスタイルを生み出しているそうである。前世紀のように大きな物語、流れがなくなり、枠組みにとらわれずに、あるいは何も枠組みのないところで制作せざるを得ないからかもしれない。できるのはせいぜい過去の流れの影響を受けながらも独自のコンセプトで制作せざるを得ないということであろう。
 現在「オタク文化」に代表されるアニメ、マンガは世界舞台に登場し活躍をつづけている。アニメ、マンガといえば日本が思い出されるほど浸透しているようだ。「マイクロポップ」展にもマンガ的要素を取り入れて制作しているアーティスト(國方真秀未タカノ綾)もいる。時代反映の一例かもしれない。
 ともあれ水戸芸術館原美術館での展示を総合して「マイクロポップ」は日本文化の一傾向だと松井みどりは分析しているし、そうであろう。何せ発想が面白いし、素晴らしい。感心せざるを得ない。従来の鑑賞視点から見ると、あまりにも「些細な」、「子供じみたもの」、「マイナー(周縁的)なもの」かもしれないが、そこには人の心を感動させる多くが詰まっている。日本だけでなく世界の視点から見ることができるのではないか。これがこのたび国際交流基金が世界の舞台に提示しようと取り上げた理由であろう。

http://www.peeler.jp/column/sugawara/0907.html


 「えーよくわかんない」って思った人、僕もです。要するに「マイクロポップ」とは、アート内でより生活感のする生臭い表現が多くなったという発見です。それだけです。アニメで電信柱が唐突に映るカットとかあるじゃないですか?エヴァとか。一言で言えばあれです。今までアートは大ネタの傾向が強くてエヴァが射出されるカットばかりほめていたのですが、最近になってやっぱり電信柱は生活感するしなんかオシャレだし中二心をくすぐられると発見したのです。

 ポモソーシャルにはイデオロギーな感じの、資本主義がどうとか倫理観がどうとかはありません。もう全部フラットです。「差別」とはコミュニケーションだし、「犯罪」とは法律に反したという意味なのです。それが僕たちポモサピエンスの認識方法です。
 より具体的な話をします。例えばトイレに入ったら上からバケツごと水を掛けられるとか、三角関係のもつれで恋人を刺し殺すとか、そういう「わかりやすい大ネタ」に対して「わかりやすさ自体」を情動よりも先に感じてしまい、ネタが大きいほど白けるのです。

 今期アニメでも『ピングドラム』が近親相姦を臭わしていながら至って自然に受け入れられているのはこういうわけです。地上波セックスに挑むアニメが少し前にあったわけで、もうこの「近親相姦」という大ネタは「萌え属性」として回収されてしまっています。あるいはもしルルーシュが普通に自由主義的なアメリカっぽい社会を目指していたなら、政治に興味のある青年にありがちな「若気の至り」*1という解釈に回収されたはずです。近親相姦も政治思想も大変立派なものですが僕らにとっては現実味がないので感情移入なんてないし、押しつけがましい「抑圧的なドグマ」に不快感すら覚えるのです。もしかしたらこのポモソーシャル化に関しては、アートよりもオタクの方が敏感だったのかもしれません。大ネタに頼らず小ネタを積み重ねるような「日常系アニメ」の流行がアートでも見られるというわけです。


 ライトな説明をアリバイにして核心に触れて行きます。果たしてこのマイクロポップという提起は何だったのでしょうか。出る杭を打つのが趣味なので叩いていきます。

 端的に言ってこれは保護的ではないのかという疑念です。ナイーブでマイナーなセンスを大切にするのであれば文化多元主義(笑)への逆戻りでやはり抑圧的なわけで、いくらか方法が巧妙になった程度の違いでしかありません。ドゥルーズあたりの援用っぽいのですが、僕のドゥルジルはそんなこと言ってません。ポモソーシャルではそういった保護によって流動性が衰え、淀むことは許されないのです。もはや何も許されることはないし、また許されないこともない世界。それなのにカルト的な決断主義は勝手に「許されること」を作り出してしまっているので後ろ指を指されます。一応「戦略未満の戦術」とエクスキューズしているものの、それって自覚があるだけで普通にマイナーな弱者ですよね。まるで以前に書いたようなオタク批判がそのまんま当てはまりそうです。


 もうみどりたんは見限りました。著書を読んでいてポモソーシャルへの苦悩が滲んでいたのですが、まさかこんなしょっぱい回答しか出せないなんて落胆しかありません。
(でも下の本は名入門書だからオススメだよ!)

*1:あるいはネトウヨとかそういうの