【オタクによるアート搾取問題】 『ピングドラム』のクリムトが悪質で、『カオスラウンジ』がアートになる理由

この醜くも美しいオタク

 オタクは村上隆やカオスラウンジに向かって「オタクを"搾取"している」と言う。そしてアート側はアート側で「これが"搾取"ならオタクのクリムト、アートの引用も"搾取"だ」と反論する。

こうなったら戦争しかないじゃない!あなたも…わたしもっ……!!
オタクとアートによる戦争よ!

だからわたし、魔法少女になるッ!!!

このルサンチマンと俺様ルールが連なった円環の理をわたしが終わらせます!

みんなも僕のアカウントと契約(フォロー)して戦争に参加してね!*1

オタクコンテンツとアート作品のヒエラルキー、優位性

  オタクがアートを"搾取"する理由は極めて単純で彼らにとって『高尚』だから。仲間内での駄サイクルにおいてはちょっと箔を付ければそれだけで薄汚いほめ合いっこが始まる。その構図からしてまずアートによるオタク搾取と非対称。まずこれを掘り下げる。なので長ったらしく問題の整理が続きます。アートがわかっている人には今更なことだし雑な要約だから飛ばしていいです。

 まずオタク作品とアート作品のヒエラルキーが違うことを明らかにしなければならない。かといってオタク作品にしか教養を持っていない人間にはこの言葉の意味すら伝わらないだろうから先にアートについて簡単に触れる。
 近代以降のアートに対する評価は単純に分けて2つの基準がある。まず近代以前と同様いかに美しいか、いかに観客へ訴えているか、という作品の表層部分、視覚での基準。そして近代以降導入された新基準がその表層に現れない「コンセプチュアル(=批評性)」、文脈の創造と継承、過去と現在の検証*2を行わなければならない。そして圧倒的に後者の基準が何にも勝って優先され、批評性抜きのままアートになった例は近代以降では"皆無"。視覚的に良くても理論がなければ"ただのイラスト"。*3
 と、これだけ聞くと近代が芸術の創造性を狭めたように思えるかもしれないがむしろ逆で、デュシャンのような"反則行為"が許され一気に拡張されたように見ることもできる。つまりアートとして成立しないものが無くなった。近代以前では高難度なほど希少価値が付き特権として芸術の地位が与えられアルチザンとアーティストが同義だった。しかし現代では「理論の実践」としてよりよく表現できていれば便器を使っても、動物の死骸でも、オタクの二次創作絵を加工しても構わない。ファイン・アートはその純粋性ゆえに汚俗だろうとフラットに使う特権が与えられた。

 オタク作品、キッチュには「コンセプチュアル」がない。つまりビジュアルと本質的価値が同一で理論武装のない抜き身の刀。アートの場合は刀とは別に箱が常にあって「コンセプチュアル」について書いてある。この箱書きが本質的な価値。それで箱と刀のどちらが高いのか?となった時、箱のが圧倒的に高くなる。綾波レイ等身大フィギュア村上隆作のキモいフィギュアでは桁が違うほど。なぜなら刀を作るなんて前時代的で、頭脳労働のできない無能さを自分から告白しているようなもの。刀一本を丁寧に作り上げる職人より、包丁を大量生産できる機械を設計した人間の方が偉いという近代社会のシンプルなルールによってアルチザンはアーティストと峻別され身を窶していった。価格の差がそのまま功労に対する賞賛の差。
 見た目が良いだけの"ただのフィギュア"なんて何の価値もない。外国人はなぜ村上隆の作品として高い金を払ってまで買うのか。実作者のBOMEに直接発注がないのはなぜか。オタクは考えたことあるの?まさかあいつらの見る目がないからだ、とかルサンチマンを吐き散らかすだけなの?オタクの価値が低いのは被害者意識だけ人一倍で顔面キッチュな君たちのせいだ。
 『ギャラリーフェイク』で言われているような上澄みの掠め取りではない。オタクに上澄みなんてない、そもそもの価値すらないのだから。

アートによる"オタク搾取"は良い"搾取"

 そもそも誰が"搾取"なんて頭の悪い言葉を使い出したのかわからないが、定義を曖昧なまま使う。オタクがクリムトをパクるのを"搾取"と呼んだ時と、現代アーティストがオタクをパクるのを"搾取"と呼んだ時、この共通点をさぐりさぐりの考察。もうたぶん頭の良い人はさっきの比較でこの"搾取"という問題が非対称、別次元なのを理解できていると思うが改めて整理し発展させる。
 オタクコンテンツにとってのビジュアルと、アートにとってのビジュアルは意味が違う。オタコンにとっては本質と同義でアートにとっては本質の依り代。ただし単なる依り代なのであれば論文のような体裁でもいいはずだがそうではない。現代アートの爆発的な拡張を未だ現代アート内に留める理由、素っ気なく言えば「外連味」でしかない。だって論文なんて一般人は読まないでしょ?だけれども現代アートは無知蒙昧な土民たちを近代人に教育してやる『使命』を持っている。なぜならモダニズムは『未完』だから☆
(わざと醜悪な例えを使っています)

 「外連味」というのは商業性の問題。よりよく売れるため(=伝播)の努力と言える。あまりにも純粋にファイン・アートをやってしまうとマーケットが成立しないし、このマーケットの不成立は先ほどの『使命』に反する。なので現代アートはこの点で強い努力を常に求められている。例えばある時期、絵画があまりに素人向けでダサいとされた時代があってそれがしばらく続き一般人が離れてしまったので慌てて絵画を復権させたこともある。しかし決して商業性に振り回されているわけでなく『使命』があまりにメタで高潔すぎるので何をやっても技法がフラットにしかならないためのこと。
 醜悪な例を用いておきながら誤解を制すると、この『使命』は近代的に行われた植民地化と位相が違って宗教や倫理なども全てフラットな点。では、何を求めているのか?『正義』以外のなにものでもないもの、もちろん現前しない方のポモい意味で。普遍性、客観性、超越的な倫理、総じて言い表すことすら途方も無い根本的で純朴な意味での『正義』。脱構築の果てです。

 いきなりぬるオタを振り落とすようなことばかり言ってますが簡単にまとめます。

 最先端で批評や哲学をやってるマッドな人達は、人類のATフィールドを融解しより高次のポモ・サピエンスに統合させようと企んでいるのです!!(なんだってー!!)

オタクが"搾取"しているものは何か?

それでは長く「アートの優位性」を述べたのでオタクサイドに言及します。

 具体例を出しながらオタクの悪質さを追求してみます。みんな大好き『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』です。岸田メルのキャラデザで有名ですね。吹奏楽ブームが来るかと思うほど熱い人気のあった2010年の作品です。キャラクターの名前は覚えてないのですがあずにゃんみたいなのがかわいかったですね(たしか百合属性だったっけ?)。あと『エルフェンリート』(グロアニメ)とか『ピングドラム』(ウテナの監督)です。



 ちなみにアートに詳しい人との会話でクリムトって名前は出すだけで苦い顔をされます。中学生がツァラトゥストラ片手にニーチェが!って詰め寄ってくる感じと同じアレだと思います。――そういう理由でオタクはしょっちゅうクリムトを使いたがる。
 パロディとかオマージュとかオタクはエクスキューズをしたがるものの、どれも画一的な定義のある言葉ではないし恣意的なので無視。よりメタに立って言えば問題は商業性にある。前述のようにオタコンは表層と本質が同義、つまり商業性しかない。表層(=商業性)しか作れないオタクがアートの表層を"搾取"するのは商業性と商業性がぶつかり合い一方的に組み敷くガチの"搾取"ではないか、という問題意識。
 
 例えばエルフェンやソラヲトのOPではストーリーと重ね合わせるように所々の改変がある。幻想や退廃、ある種の感動を呼び起こすような、芸術がアートになる前の"芸術"だった頃の神秘性『高尚さ』の喚起を目的にストーリーの寓意として使用している。ここで誰かがやってたピンドラの分析を引用する。

「あのクリムトのパクリっぽい絵の面白い所は、クリムトのパクリだから当然、4話のような苹果のイリュージョン空想世界の描写だ、と視聴者に思わせておいて、アニメの中のレストランに背景として飾られている絵であり、キャラクターの空想の中とアニメの中の背景と視聴者の印象が溶け合って、ちょっとびっくりするのが面白いね、って言うネタ」ですよ。
そんくらい見ればわかるだろ。
何でアートの政治性とか、正当性とか、著作権とか小難しい事を、イライラして言ってんの?
アニメはおもしれーんだから面白がってりゃあいいんだよ!

http://d.hatena.ne.jp/nuryouguda/20110806/1312556925

 視聴者の心を抉る力をアートに認め、クリムトの商業性を"搾取"し自らの商業性に肉付けをしている。より売れるための小賢しい技法。あたかもエロを押し出して売り上げを取りに行くお色気アニメとまるで違わない。オタクの勘違いは「アニメは面白ければなんでもいい」のではなく「面白い以外の言葉が一つもない」こと。アニメには体系化された価値基準も、正確に価値を体系付ける批評も存在しない単なるキッチュ。悉く悪質なポルノ作品でしかない。自らの私腹を肥やすためにアートを風俗に落として働かせ売り上げを掻っ攫うような悪質な"搾取"だ。
(実際にエルフェンリートとソラヲトはエロい!)

 え?作品に込めた思いやメッセージ性?世間への公開が為された時点でそれらもただの商業コンテンツですよ?例えば同人作家が「涙を流しながら苦労して描いた作品」は、そういう隠れていたものを公開することで初めて「苦労して描いた作品」になります。もちろん感情を踏みにじられたと思ったら法律によって賠償やらなんやらを問うことは出来ます。しかし逆説的に聞こえるかもしれませんがプライベートな心情までもが商業性に回収されるゆえに――公開され商業性を得た(≒コンテンツになった)からこそ、初めて法律で問うことができるようになっているのです。法律というのは『正義』への問いかけでは無く商業性間の対立の調停、誰かがしなければならない決断を苦渋の中で仮定的に第三者として(=客観として)執行することなのですから。
 たぶん来るだろう素朴な主張、「人の心を踏みにじるようなものが『正義』のはずない、だからアートは悪質」という批判は成立せず、正確にこの議論を記述するなら「人のコンテンツを踏みにじるようなものは『正義』への問いかけではなく商業性間の対立で、だからアートの商業性と対立する」と至極当たり前のことになります。心情を踏みにじることは商業性間の対立でしかないので、アートの本質については何も批判できていません。と、これからの議論を前にあらかじめオタク系クリエイト精神に牽制球をデッドボールさせておきます。

総括:アートはオタクを断罪可能、オタクはアートを断罪不可能

 アートでは表層と違うところに価値がある。オタクは表層がそのまま価値になる。なのでアートが表層を"搾取"しても私腹を肥やすような悪質さはない。しかしオタクが表層を"搾取"することは価値をそのまま"搾取"することと同義で、アートによる"搾取"よりも悪質さが増すのではないのだろうか。オタク・ソーシャル内のルールを採用してもそうなるのでは?たぶんアート・ソーシャルならオタク無価値よってアートから追放という処分になるとは思うものの、オタクはオタク・ソーシャルから追放という処分では無く追い込んで炎上させ粗を探し社会的制裁まで望むとか、どれほど悪辣な性格なのだろうか。

 アートはオタクを体系的に包括し捉えることができる。その上でハッキリと俗悪なキッチュと断じることが可能。オタクもアートも無理矢理に同じ土俵に立たせどちらの方が「表現」という根本的なものに『誠実』なのかを問い質された時に、オタクは絶対に100%何があってもパーフェクトに勝てるわけが無い。なぜならオタクの言いそうなことは全てアート内にあって、そして古くさくて価値の失われた言葉にしかならないため。もし対等に殴り合う場合は絶対に(ry アート内の言葉によって行われるのがわかりきっている。

 オタクでもこの非対称に自覚的な人は「お互いのルール違いで、一方に乗っからなければいけない理由はない」と言う。これはアート側の人でもよく言う理屈。だけれどもそのナンバーワンよりオンリーワンを尊重するような態度はぬるいだけで停滞ではないか。
 内輪のルールを押し付け合ってはいけない、とするならばお互いに隔離されたままの在りようが可能なのかを考えなければならない。こんな想定、今回の問題化のように結果論から導いてもあり得ない。特にポストモダンな社会では極小化されたルールが個々人にあることを、そしてそのルール同士の摩擦無しで生きることが不可能なことまでも告発済みのはず。内輪のルールに閉じこもることを肯定するなら対話の可能性を捨てて『誠実さ』を失ったカルト教団化、決断主義的な悪癖にしかならない。またカルトでいいのならなぜカルトでいいのか"無根拠さ"まで言及すべきではないのか。
 もし言及できないなら――対話すらできないのなら、やはりオタクを「悪質なカルト教」と言って何の問題があるのだろうか?少なくともアートでは開かれた議論があって、オタクだろうと対話可能な『誠実さ』がある。その上でアートに劣っていると断じることに問題はないはずだ。でもオタクは「見下している」とか「権威主義」とか喚くの?対話もしないくせして?

 結論として言えば、無根拠にオタク・ソーシャルを絶対視する意外にオタクの論理がアートの論理を圧倒することはない。ただしそれもカルト的という批判が付き纏った後ろめたいものになる。こういう言い方をするとアート・ソーシャルの絶対視のように聞こえるかもしれないが、無根拠ではない点で大きく異なる。アートがこの地球上で最も強い体系を持っているのだから、事実上のナンバーワンを無視してオンリーワンを唱えるほど無根拠の寂しい瞬間はない。オタクはこの点にもっと危機意識を持つべきではないのか。最後に村上隆のつぶやきを引用する。

オタクがいまやオーバーグラウンド化しており、立派な日本の文化となったため、僕の興味は更なるアンダーグラウンドへと向かう。オタク研究者の数は20年前に比べると驚く程の変革が起こった。こうしたソーシャルメディアを加えると星の数程の論客達も創造者も蠢いている。
posted at 09:17:59

しかし、案の定、西欧諸国に持ってかれている。何を?旨い部分を。つまりビジネスには日本人は変えれなかった。(日本国内のみでは小さなビジネスを展開は出来ていたが故に足下をすくわれている)そして、彼らは気がついた時に大声で叫ぶだろう。「搾取された」と。
posted at 09:20:27

否。「ライオンキング」や「トランスフォーマー」みて、喜べる程、日本人はお人好しです。そしてそうした危機感を持って文化を外部化して構造を読み解いて日本に還元しようとし続けた私には手厳しいバッシングです。まぁいい。いいんです。僕はもう、日本のシーン、還元する事半ば放棄していますから。
posted at 09:22:35

http://twilog.org/takashipom/date-101228

もうオタクなんてバカ!バカ!しんじゃえ!!

ぼくの考えたカオス*ラウンジ論

 今までの論を使ってカオスラウンジ論を書くつもりだったのですが長大になりすぎてめんどうになりました。こんどやります。
この問題のつなぎで一言だけ言及すれば、ソクラテスは毒杯を呷らなければならなかったという結論で収まると思います。

*1:まどマギってこんな感じだったけ?記憶曖昧

*2:村上隆のことば

*3:アウトサイダー・アートは?って言う人がいるかもしれないけれど、アウトサイダーを世に出した批評家の介在があることを忘れてはいけない。