「玄米茶」は語ることができるか――「アート無罪」なんて初めからなかった

個別に対応するのがめんどうなので、改めて議論の整理とまた批判への反論を行います。
結論から言えば、僕の批判を玄米茶が身を反らす形で終わりました。
不毛だったと言っていいかもしれません。
特に「揚足取りじゃないか」みたいな批判をしている人にはそのように映ったかと思います。

続々と届く批判はわかりやすくしろって主旨ばっかり、というかそれ以外に実質的には無し。
この現代社会、言論だって顧客満足重視の時代です。
なので無駄なサービスは削ってよりニーズに合わせてゆきます。
めんどうなので敬称とか略すし、引用もちょっとくらいは改変しちゃいます。
細かな論証、ジャーゴンはググればわかる程度にまでしか掘り下げません。
暖かみの消えた競争原理の病巣です。

寄せられた批判も交えながら最終的に議論が「明らかにしたこと」を一般人にも理解できるよう、可能とやる気の限り頑張ります。



現代アートの構造

 事の発端も、また終結もよく見ればとても一貫した流れに沿っていました。根本的には「どのようにアートを問おうとしているのか」という懐疑です。このことは初めの方のツイートでも言及しています。玄米茶の問いかけは果たして適切に行われているのか。各所で披露していた「ぬるい」カオスラ批判の妥当性にも疑問がありました。


 現代アートはコンセプト性が上位にあり、下位に表現の技法があります。この辺りの細かなことは紹介されていた本なりを読んで理解してください。端的に言えば、筆で書かれた絵もコラージュされた絵も、写真も、彫刻すらみんな平等にアートとしての価値はありません。あくまでその媒体に付与される「文脈の継承と検証」がアートとしての価値です。現代アートが全てコンセプチュアル・アートなのはそういうわけです。


 http://d.hatena.ne.jp/AIYOUYOUNI/20110814/1313338686

 問題は終始、この以前書いた記事の焼き直しのようになりますが、商業性とコンセプト性についての"位相の違い"をどのように認識しているのかという点です。

「よく描くこと」と「よく売ること」

 大作の絵を1枚仕上げることと、iPhoneケースを大量生産するのではどのように違いがあるのか。

 前章で触れたようなコンセプト性と表現方法の位相の違いは、そのまま純粋な「正義」への問いかけと脱構築されてしまう現前の話に置き換えられます。コンセプト性とはつまり普遍性の追求、究極的な意味で「正義」への問いかけなのです。*1そして現前、発話や表現一般は例えどのように普遍性を追求していても立ち現れた瞬間に何らかの硬直的な解釈にはめられ、普遍的であったはずが個々人の利害間の対立、経済的な活動*2になります。つまり商業性から逃れる表現はあり得ず、例えば絵であれば描かれた瞬間から経済的な商品としての側面を持たざるを得ないのです。


 と、理論的な背景を先にを述べてみましたが話はけっこうシンプルです。現代的には「よく描くこと」は作品がよく売れるようにすることとイコールなのです。そのため「作品を商業分野に持ち出すのであれば、様々なルールや法に縛られる」というのは明確に誤りで、絵は描かれた瞬間、作家が筆を手に取った時から既に商業性を帯び、そして商業性間の対立つまり利害間の調停としてある「法」の関与を受けてしか描かれ得ない。「商業的にアートと言う商品を扱う上で求められる能力」というのはこの「よく描くこと」についての能力を意味し、ただの程度問題でしかありません。

 カオスラウンジが社会性に疎いことについて特に異論はないかと思います。前述のように「社会性と折り合いを付ける」というのも当然あり得た"表現方法"ですがそれを重視しませんでした。この意味はまるで大きくないもので、描かれた絵のキャンバスの大きさ程度にフラットなものです。そして玄米茶の問いかけ方は小さなキャンバスに向かうアーティストに「どうして大きなサイズで描くのか?」と問うような誤謬を含んだ行為で、その上相手が本当は小さなキャンバスにしか描いていないことを知っている上で発せられた「安全で卑怯な問い方」なのです。

 玄米茶の主張は一貫して「ダメかどうかではなく、質問をしている」というものです。その点で一貫しているゆえにむしろ矛盾を大きくしています。「問い」であることをよく強調していますがそもそも「問い」であるなら回答を望んだ上での対話を求めなければいけないはずです。果たして玄米茶は回答を望んでいたのか、という疑わしさがついて回ります。そしてこの点について批判をしたのですがスルーされてしまったように思います。「社会性」を重視しなかったカオスラウンジに対して、つまり小さな絵を描く人に「大きなキャンバス」について問うことは、最早それは「問い」ではありません。針小棒大に捏造したスキャンダルについてのただの晒し挙げです。炎上への積極的な寄与と言って、言い過ぎということはありません。

「許されないこと」と「許され得ないこと」

 「アート無罪」という言葉の使われ方がまるで理解できなかったのですが、最近ようやくわかりました。「アートが有罪かどうか」についてだと思っていたのですが「アートは犯罪をしてもよいのかかどうか」という問題意識らしいです。ハッキリ言ってこの問題意識から間違ってます。犯罪の意味は法に反することでしかありません。法自体は倫理観とまるで異なるものです。だから犯罪をしてもよいのかどうか、という問題意識は全くアート固有のものでなく万人が自然に持っているものです。そしてさっきも書いたように法を超えた純粋な「正義」についての問いかけが法を超越しているのは自然なことです。極論に聞こえるとは思いますが、法に反することがなぜそもそも悪なのかというより根本的な問いから始めなければいけません。この便利な「アート無罪」というレッテル貼りはただの思考停止です。

 またアートに対して「商業」とか「倫理」の枠にはめた語り方をしてはいけないのか、というと違います。そのような語り方をしてもいいのですが、それではそもそも「問い」ではなく批判にしかなっていません。アートに対しての問いにも関わらずアート以外のものであると断定した上で語るのであれば、その前提で互いに共通認識がなければあまりに一方的という誹りは免れません。無根拠なフレームの描き方について「無根拠である」と指摘することが揚げ足とりなら、誠実な問いかけなんて存在しないことになります。

 以上の批判は、決して僕個人のアート観の押し付けではありません。コンセプチュアル・アートなど多くの点で玄米茶と認識は共通しているはずです。そしてあくまでも玄米茶的言説内での「ぬるさ」というべき矛盾点の指摘です。恐らく玄米茶自身のアート観を披露してもらうか、あるいは法そのものへの問題意識が見られればよかったのですが、よくよく考えると、そういったより高い視点から何かを語っている様子を一度も見たことなかったなぁと思い出しました。果たして玄米茶はどれほど誠実に「問うているのか」、未だ見えてきません。

*1:普遍性の話については http://d.hatena.ne.jp/AIYOUYOUNI/20110818/p1

*2:エコノミー

おやすみを頂くことになりました

前から言ってたことですが、2週間くらい遠いところへ行ってきます。

帰ってきたら作豚をdisります。
アート側から一方的に虐殺してやるぜ!待ってろよ!作豚ども!


客死したら思想の跡継ぎがいないので、遺書代わりに悩んでいる問題を列挙しておきます。



* 「隠れた変数」の発見によるEPR paradoxの証明
* いわゆる「主客問題」の解決
* カントール対角線論法を超える方法論による「実無限」の証明
* 「私」と「現在」と「ここ」と「同一性」問題の解決
* 「言語」と「論理」と「物自体」との関係性の規定
* ライプニッツの「普遍数学」に倣った「普遍統計学」の確立
* 「普遍統計学」を応用した株価予測技術の開発
* 純粋唯物的脳科学的アプローチによる「倫理」「美」「目的論」等の「価値問題」の完全処分
* 余白が足りない
* 萌えとアウシュヴィッツホモ・サケルちゃん」
* 余白が足りない

『ハッキング』の時代 ――村上隆的ハッキングと宇野常寛的ハッキング

 村上隆は「スーパーフラット」を掲げてドメスティック(国内)な文脈を海外の文脈(アートのマーケット)に接続して評価を得ました。宇野常寛は「リトルピープル」を合言葉にポモソーシャルの中でどのような正義がありえるのかを説いています。問題意識は二人とも共通していて、個々人が意識を強く持とうと大きなうねりに飲み込まれてしまうこの時代の中で賢く強く生きていきましょう!みたいなことをたぶん言ってます。*1

 対峙しなければならない大きなものという仮想敵が海外アートマーケットだったり社会そのものだったり細かい違いはあっても基本は同じで、システム内での基準を分析して沿うように自分を最適化する。ちょうど構造主義の成果を実践に移したようなもので、レヴィ=ストロースが行ったように西洋中心主義な白人に向かって未開社会にすら同様の「構造」が見られることを告発し、基準自体をメタに問うという方法論を利用している。「マイナーな弱者」がどうしてマイナーで弱いままなのか、冷徹に見極め基準自体への問いかけにまで昇華させる。*2
 もっとも「本当に基準はあるのだろうか?」と懐疑する/させる方法といえばソクラテスの産婆術にまで遡って、現代的にはデリダ脱構築がその役割にあると言う話になるけれど煩雑になるので触れない。*3

 つまり「ハッキング」というラベリングを付けただけでやってること自体はそこまで突飛じゃありません。
 

芸術起業論

芸術起業論

 

ハッキングへの誤解

 まずハッキングという言葉自体だいぶキャッチーでウケが良くその分だけ誤解も多いように思うのです。受容論みたいなのを考えると、やはり日本自体がモダニズムを経てこなかったためだろうというアレな話に戻ります。日本は戦前から「マイナーな弱者」だったので形だけ欧米から借りてきて近代社会らしきモノを築いてきた。しかし日本のモダニズムはあくまで欧米からの承認欲求でしかなく何に対するモダンなのかが不在のまま、なんとなく今のポストモダンにまで来てしまったというわけです。
 教室の片隅に追いやられてしまったならやれることはそのままイジメられっ子として生きそのうち暴発を起こすか、ピエロとなっても受け入れられるべくお調子者ポジションを狙うかといったところです。*4あの戦争は前者の「暴発」で、その挫折と反省があるため後者のストーリーは受け入れやすいのではないでしょうか。
 また特に誤解されることの多い村上隆の例で言えば、海外が求めている"オリエンタリズム"*5に戦略として積極的に答えているという面もあるのでしょう。

奇形種の国の中で見にくい奇形の部分がことさら肥大化されて育ってしまったら、そりゃ見たくはないわな。目を背けたいわな、と言う事で、私が日本で嫌われてる意味はよく理解しています。自分自身でも猿回しの猿だという自覚もあるし、むしろそこに尊厳もある。
takashipom 2010/11/14 18:03:30

http://togetter.com/li/68872


 村上隆に関してちょっとした知識人からよく飛んでくる批判なのですが、これは決して"弱者ぶる"ような開き直りの安直さや、またあたかも村上隆自身が"オリエンタリズム"であるといったことは当てはまりません。この文脈間でのパワーゲームに安っぽい善悪の価値観を持ち込もうとするからねじれるのです。『リトル・ピープルの時代』はたぶんこのねじれを正面に受け止めた要請が仮面ライダーに見られるような複雑化した「悪役」のポジションであると指摘しているはずです。*6善悪の関係がフラットで限りなく希薄になり私怨と私怨の衝突のようになってしまったこのポモソーシャルで、それでも依然残っている強弱の関係という闘争の場面がまさに仮面ライダーのそれなのです。

 文化多元主義じみた粗悪な「みんな違ってみんないい」なんてこの強弱と善悪の混同から導かれたただの現実逃避なわけで、もしオタク・オリエンタリズムというレッテルを貼るならオリエンタリズムになり得ない方法を提出すればいいのです。強弱の関係が差別的であるという指摘は当たり前のことで、そんな何にでも当てはまるレッテルなんて無意味で無価値です。この人間め、とかレッテル貼りするようなものです。
「男性にとって女性が化粧をし着飾る行為は女性・オリエンタリズム
「人間が動物心理学やれば動物・オリエンタリズム
「外国人の前で日本人がナルトごっこしたらナルト・オリエンタリズムェ…」
とか本当に何も考えず適当な例を出してみました。たぶん批判は出ると思いますがこれらと村上隆との構造的な差異をどの程度ハッキリ論証できるのか、先に言えばそんなの不可能です。レッテル貼りの構造的には何も違いません。
 たぶんそれでも「日本像が抑圧的だ」みたいに批判を続けたがる人も多いと思うものの、元祖オリエンタリズムといえばこの人サイード。自身の後の転回のように異文化が混交した「ハイブリッド」な在りようが支持される流れになります。もう批判のバックボーンからして詰んでます。日本画やオタクカルチャーを海外の文脈に繋げること、というのはまさにこのハイブリッドと言っていいはずです。あたかも日本人らしさを消去すべきと言う批判側の方がよっぽど抑圧的なのです。*7

 信者が多そうなので具体名は伏せながら、よく対比で挙がるアーティストって正直まったくその良さが理解できないのですが。「理論派なのに海外では日本人に理知的なのって求められてないからねぇ〜」とか慰められながら未だにカントがどうとかうだうだ語ってる浅田彰の茶飲み友達とか、わしの次元は108次元まであるぞ…みたいにドラゴンボールじみたインフレ起こしてる人とか、あんなのが村上隆よりも「強い」わけがありません。
 単純に、アートに対しての認識のフレームが違うんです。僕らはメタに見られませんなんて告白にどうして構う必要があるのか。まさに弱者ぶりっこです。ピーマンは苦くて食べられないし、モンティパイソンよりもホングコングの西原さんの方がおもしろい、みたいな子供舌の自慢ですよね。

@takashipom キングコング西野亮廣と申します。遅ればせながら「芸術闘争論」を拝読させていただきました。
「アート」と言ってしまう逃げ方に疑問を感じていたので、痛快でした。今後ますますのご発展と飛躍を、ご期待申し上げます。

http://twitter.com/#!/nishinoakihiro/status/106019635173916672

それではどこまでがハッキングなのか

 さて宇野を援用しながら村上隆批判に反駁したものの、この二人の「ハッキング」はけっこう違うものです。単純に見てもアートで行っていることと文芸また社会批評的に行っているのとではまた違うのですが、メタに見てもやっぱり違うのです。

 宇野の場合は「いま、ここ」から社会と繋がったままの状態から一石を投じる手法としての「ハッキング」。個別にある差別などの社会問題はどのように動こうと「誤り」を含んでしまい決断主義に回収されてしまいます。そのため何もしないという選択肢も肯定され得る、けれども宇野はそのぬるさを「セカイ系」として批判を加えました。つまりこのポモソーシャルでは「行動」か「非-行動」にせよとにかく最低限の決定はなされなければいけないものの、行った瞬間に誤謬の可能性からは逃れられないというわけです。
 そしてこの苦渋の自覚がただの決断主義的行為とハッキング行為を分ける分岐点になっています。この言説自体が既にそうであるように自覚からメタに立って発した言説は全て、他者の文脈に対してのハッキング行為になります。目の前の決断主義的な正しいことよりも「もっと正しいこと」という想定が『啓蒙的』であることを要請するのです。
 そしてこの「もっと正しいこと」を追求してゆく先に、差別などの個別の問題を置き去りにするほど強力なブレイクスルーとなる「社会変革のイメージ像」の提案を訴えているわけです。たぶん。

 対して村上的ハッキングの場合はまた事情が違っています。アートとしていわばビジネス自体、マーケットというシステムのシミュレーショニズム的な告発とその再現みたいなものが本質にあるためアートが社会に先んじてあり、ある意味でアート側から社会のマーケットへ横断してきたハッキングと言えるかもしれません。宇野的ハッキングとの共通点といえば初めに言及した程度の「文脈そのものへの問いかけ」くらいなもので、行為としては似ていてもその目的や射程はまるで異なっています。先述のようにアートでは個別の問題から離れているが、社会を包括しようと思ったらどうしても改めて語り直さなければならないのです。しかし冗長になるので宇野的ハッキングと村上的ハッキングの子細な比較や優劣についてはとりあえず留保しようと思います。

宇野的ハッキングの脱構築可能性

 正直なところ、宇野は果たして胸を張って自称するほど「ロマンチストで現状批判的」なのかというと懐疑的です。

 宇野先生はフラクタルが2話放送時くらいで糞アニメだと見抜いていたので案外芸術も語れるのではないかと思っていたのですが、でもよく考えたら表層的な文芸批評だけで芸術とかラディカルな問いは全くしてるところを見たことがない、というか「東方projectが〜」とか「政治と文学が〜」みたいに言ってたのに格好の「カオスラウンジ騒動」に触れていない。これってクリティカルに「政治」「文学(アート)」みたいな固有性に留まらなかった横断的な問題なのに。
 想像力が現実に浸食した時にそこで必然的に現れる摩擦問題、と僕はあの騒動を捉えているのですがこれはそこまで穿った見方ではないと思います。

 僕と宇野はそこまで遠くない認識のはずです。植民地問題や差別問題の根本にある文脈を想像力でしかないファンタジーな要素にまで還元した場合、萌えとかポップカルチャーとの差は無くなります。どのような社会モデルであっても現前する限り「暴力性」は逃れられないものの、より暴力性の少ない社会を目指すことはでき、それ故に宇野的ハッキングの理想は「革命」によってひっくり返してまた新しい「暴力多めの社会」を作るよりは「ハッキング」で今よりもちょっとだけ「暴力少なめの社会」を目指すべきなのです。
 であればカオスラウンジ騒動は果たして「どのように暴力性が少なくなったのか」を考えるのにうってつけだと思うのですが。ちょっと「宇野 カオスラ」とか色々とググってみたものの、黒瀬と仲が良いみたいな2ちゃんの書き込みを見つけたくらいでよくわかりませんでした。(もし語っていてもググって出ない程度じゃな……。)

 具体論の弱さは昔からよく指摘があったものの、抽象的な話としてもイメージ像の示唆までしかできていません。ちゃんと読んでないけど、インタビュー記事見ただけでもうバレバレです。細かな論証はまだ脳内ですら出来上がっていないのだと思います。そしてそのぬるさが宇野的ハッキングは村上隆的ハッキングをどの程度批判できるのかとして、そのうちハッキリするようにも思います。

そして村上隆宇野常寛、そして両者のオルタネティブにカオスラウンジが据えられると思っています。黒瀬は現代アートゼロ年代批評の中間のような位置なのでうまく止揚してくれるのではないかと信じています。*8


リトル・ピープルの時代

リトル・ピープルの時代

*1:読んだこと無いけど村上はビジネス書を書いてるし、宇野もなんか出版系ビジネスの成功譚みたいなのをどこかで語っていた。たぶん二人ともサラリーマン層のウケがいい

*2:宇野先生の「徹底的に内在することが超越に近づくという……」ってだいたいこんな感じの意味?術語感覚が怪しすぎてたまについていけない

*3:全く関係ないけど『日本的脱構築』みたいな吐き気を催す造語を作る人ってどういう神経してるの?

*4:宇野先生の提案はだいたいこんな感じですよね><

*5:用法解説:弱者ぶることの要請とまたそれに答えることの関係くらいのカジュアルな一般用法に準拠。一般人がオタクにオタ芸を要請することも含みそう。

*6:インタビュー記事しか読んでないからハズレてたらごめんね http://synodos.livedoor.biz/archives/1813624.html

*7:一応、普通のフェミ論やポスコロは実効性の話とかサバルタンとかもっと入り組んでいるけれど直接的には当てはまらないのでスルー

*8:ガリガリ君の当たりくらいには信じています

現代アートやってる人間は脳味噌がマイクロでポップなんじゃないか?という懐疑論

 新番組の『どぅるじる!』が大変おもしろいです。
コンセプトが「ポストモダンな日常系アニメ」なのだから面白くないわけないのですが、もはや全てが日常とも言える中ですら「わたくしの日常」として生活を味合わなければならない苦悩がよく理解できます。
ポストモダンがどこまでも浸透し、人それぞれの多様性が剥き出しにされた世界ですら「日常」などのテーマは依然として残り続けることをよく告発できていると思います。
特に第一話から主人公の青年(固有名詞は暴力的なのでついてません)が革命運動に参加して投獄されるカットは作画的にも素晴らしい出来で、官憲が大張パンチを出したところからこれは良質な作画アニメでもあるのだなと気付かされたわけです。

 関係ない話のようですが、あとあと語ることに関係あります。ちょっとくらいは。

 さっそく引用です

 ところで「マイクロポップって」何だろうか。実のところ分かるようでわかりにくい。あえて言えば「マイクロポップの時代:夏への扉展」図録を見ると分かりやすいだろう。
 この年代のアーティストは前の世代からの流れを受け継ぎながら時代を反映して独自のスタイルを生み出しているそうである。前世紀のように大きな物語、流れがなくなり、枠組みにとらわれずに、あるいは何も枠組みのないところで制作せざるを得ないからかもしれない。できるのはせいぜい過去の流れの影響を受けながらも独自のコンセプトで制作せざるを得ないということであろう。
 現在「オタク文化」に代表されるアニメ、マンガは世界舞台に登場し活躍をつづけている。アニメ、マンガといえば日本が思い出されるほど浸透しているようだ。「マイクロポップ」展にもマンガ的要素を取り入れて制作しているアーティスト(國方真秀未タカノ綾)もいる。時代反映の一例かもしれない。
 ともあれ水戸芸術館原美術館での展示を総合して「マイクロポップ」は日本文化の一傾向だと松井みどりは分析しているし、そうであろう。何せ発想が面白いし、素晴らしい。感心せざるを得ない。従来の鑑賞視点から見ると、あまりにも「些細な」、「子供じみたもの」、「マイナー(周縁的)なもの」かもしれないが、そこには人の心を感動させる多くが詰まっている。日本だけでなく世界の視点から見ることができるのではないか。これがこのたび国際交流基金が世界の舞台に提示しようと取り上げた理由であろう。

http://www.peeler.jp/column/sugawara/0907.html


 「えーよくわかんない」って思った人、僕もです。要するに「マイクロポップ」とは、アート内でより生活感のする生臭い表現が多くなったという発見です。それだけです。アニメで電信柱が唐突に映るカットとかあるじゃないですか?エヴァとか。一言で言えばあれです。今までアートは大ネタの傾向が強くてエヴァが射出されるカットばかりほめていたのですが、最近になってやっぱり電信柱は生活感するしなんかオシャレだし中二心をくすぐられると発見したのです。

 ポモソーシャルにはイデオロギーな感じの、資本主義がどうとか倫理観がどうとかはありません。もう全部フラットです。「差別」とはコミュニケーションだし、「犯罪」とは法律に反したという意味なのです。それが僕たちポモサピエンスの認識方法です。
 より具体的な話をします。例えばトイレに入ったら上からバケツごと水を掛けられるとか、三角関係のもつれで恋人を刺し殺すとか、そういう「わかりやすい大ネタ」に対して「わかりやすさ自体」を情動よりも先に感じてしまい、ネタが大きいほど白けるのです。

 今期アニメでも『ピングドラム』が近親相姦を臭わしていながら至って自然に受け入れられているのはこういうわけです。地上波セックスに挑むアニメが少し前にあったわけで、もうこの「近親相姦」という大ネタは「萌え属性」として回収されてしまっています。あるいはもしルルーシュが普通に自由主義的なアメリカっぽい社会を目指していたなら、政治に興味のある青年にありがちな「若気の至り」*1という解釈に回収されたはずです。近親相姦も政治思想も大変立派なものですが僕らにとっては現実味がないので感情移入なんてないし、押しつけがましい「抑圧的なドグマ」に不快感すら覚えるのです。もしかしたらこのポモソーシャル化に関しては、アートよりもオタクの方が敏感だったのかもしれません。大ネタに頼らず小ネタを積み重ねるような「日常系アニメ」の流行がアートでも見られるというわけです。


 ライトな説明をアリバイにして核心に触れて行きます。果たしてこのマイクロポップという提起は何だったのでしょうか。出る杭を打つのが趣味なので叩いていきます。

 端的に言ってこれは保護的ではないのかという疑念です。ナイーブでマイナーなセンスを大切にするのであれば文化多元主義(笑)への逆戻りでやはり抑圧的なわけで、いくらか方法が巧妙になった程度の違いでしかありません。ドゥルーズあたりの援用っぽいのですが、僕のドゥルジルはそんなこと言ってません。ポモソーシャルではそういった保護によって流動性が衰え、淀むことは許されないのです。もはや何も許されることはないし、また許されないこともない世界。それなのにカルト的な決断主義は勝手に「許されること」を作り出してしまっているので後ろ指を指されます。一応「戦略未満の戦術」とエクスキューズしているものの、それって自覚があるだけで普通にマイナーな弱者ですよね。まるで以前に書いたようなオタク批判がそのまんま当てはまりそうです。


 もうみどりたんは見限りました。著書を読んでいてポモソーシャルへの苦悩が滲んでいたのですが、まさかこんなしょっぱい回答しか出せないなんて落胆しかありません。
(でも下の本は名入門書だからオススメだよ!)

*1:あるいはネトウヨとかそういうの

オタクが本当にオタクであるために

俺みたいなポモサピエンスでオタクな腐れ野郎、他に、いますかっていねーか、はは


もうね……見つかりましたよ。究極のオタク・エクスキューズ理論が。
この理論使えばたぶんアートに対しても、あらゆる言説に対してもオタクは勝てます。

オタクが最強になるような論証をサイゼリヤのドリンクバー一本で粘りながら考え、そして浮かびました。
もうオタクがアートに怯える必要なんてありません。
石原にも規制されません。
フジテレビで放送されまくります。
勝ったな、圧倒的に勝った……。

けれどここでは余白が足りないので書かない。
今までカオスラウンジ論しか考えていなかった。
アートに対してのオタク、という意味を割と留保していた。
今まで僕のことをオタクとの対立を煽ってるだけみたいに批判してた人にごめんなさいしないと。
実はゆる〜くしか考えてなかったけど、ようやくこの問題が解けた。
サイゼのドリンクバーでメロンソーダと白ブドウを混ぜた瞬間に天啓が降りた。
思わず目の前のユリイカと高橋デリダを投げ捨てましたよ。
これです、これなのです。オタクとはそういうものなのです。
ふふっ(暗黒微笑)

ヒントは「テクニカルなコミュニケーション」と「データベース」そして「ポモソーシャル」。
でもこれ書く場所が本当にないな。
アートとオタクとか誰が得するんだよ。
思想地図に送ればいいの?
でもフォーマット整えて書くのだるいからブログでいいっかなー。


なんつってる間に2時っすよ(笑) あ〜あ、義務教育の辛いとこね、これ

☆★☆ 末代葉児のなぜなぜ質問コーナー ☆★☆

まず、ネタ晴らしです。

世界のヘイポー謝罪文まとめ(ガキの使い
http://sample.kakito.me/proverb/heipo-apology/

わかる人にだけわかるというような普遍性の無い表現はこれほどまでに酷いことなのだという例として使ったのです。本当です。
これをシミュレーショニズムと言います。
ギャスパー・ノエがそう言ってました)


それではこのコーナーでコメント欄に気まぐれで答えようと思います。
選考基準で大事なのは3点、言葉の定義を大切に、思いやりを持って、エンジョイ&エキサイティングです。
さぁ〜それじゃあラジオの前のみんな〜!
準備はいいかな?
張り切っていってみよう☆
まず最初のおたよりは〜〜〜!(暗黒微笑)


H 2011/08/18 18:20
キメこなという創作物そのものへの侮辱が問題なのではなく
キメこなが梅ラボの創作物であるという誤解を意図的に招かんとした(そう見られても仕方ない)態度が問題なのです
それを世間では「パクリ」というのです
また、パロディやオマージュをパクリと一緒くたにして語ることが、きわめて暴力的な行為であることは指摘しておきます

そんなものの違いなんて知らないし興味ありません、
定義が曖昧なので使えません。
なのでそもそもその混同とかもありえません。
初めに言ったように大切なことの1点目です。
また、著作権法など法や倫理について説明すのは今度の"商業性"についての記事にします。


名前 2011/08/18 19:06
前回の記事と共に読ませていただきアートとオタクについてとても勉強になりました。
突然ですいません、少し質問をさせてください。

まず今回の記事の引用なのですが
>力のある古参オタク教祖が「良い」と決めたものが密教的な共通理解で信者たちも「良い」と無理矢理に感じたことにされる。無根拠をそのまま正当化し絶対視するとはそういうことだ。一部の人間にだけわかるように作られ、わからなければセンスがないと断じる。それに比べればアートは誰にでもわかるよう普遍性を求められ、その「コンセプチュアル」の理路を追えば誰にでも理解し得る。

という部分
これを読んで思ったのですが、
アートの普遍的ルールも視点移動についてなど統計学や科学的な検証がなされたわけじゃない感覚的な部分に言及していたり、
わりとオタクの小さな密教ルールと変わらない非論理的な部分もあるように思うんです。
科学がアドホックな仮説を否定するような明確な実験ルールがあるからこそ疑似科学を否定できるように、アートにもそういう仕組があるんでしょうか?
もしないのだとしたらオタクの小さな密教をより拡大しただけで、巨大な宗教がアートということになってしまう気がするんです。
門外漢でとんちんかんな質問だったら本当に申し訳ない。

視線の誘導などは表層の問題なので、アートで役に立ったのは大昔のことだけです。
しかし現代でもこういう絵画的技法が消えたわけではありません。
もしも絵画を描くのであればこの技法について参照した方が単純に出来が良いのは変わりません。
それが価値の本質にはならなくなったという話です。なぜなら表層なので。
ヒエラルキーの問題です。
上位の概念に「コンセプチュアル」、下位に技法やディテール。
感覚的でしかない基準だったから、デュシャン以降は下位に置かれたというわけです。


satis 2011/08/19 04:18
>主観が紛れ込むのであれば、それは純粋では無いので基準として使えません。要するに持ち主によって誤差の出るような温度計のことを果たして温度計と言っていいのか、純粋な温度の計測には使えないのではないかという問題意識です。なので主観を超えたところ、「観念」に基準がシフトします。

観念が主観の影響を受けない絶対的な価値基準だなんて本気で思ってます?
純粋に観念的な存在である「神」を巡って、つい今日まで殺し合いしてるのに?
そんな幻想は百年前に卒業するべきでした。
デュシャンはとっくに卒業してチェスに逃げたんですけどね。

ついでに言うと「理性」なんてのも信じないほうがいいですよ。
戦争っていうのは徹頭徹尾理性によって組み立てられたアートです。

「商業性」を持ち出すなら、あなたは大嫌いな萌え豚のケツの穴を舐めざるを得なくなるでしょう。オタク文化を支えてきたのはその萌え豚たちなのだから。
そしてあなたの大好きなモダンアートが、いかに日本人の心を捉えていないか、つまり、誰もそんなもの求めていない、売れない表現かってことを骨の髄から知るべきだ。
卑しくも「商業」という言葉を混ぜ込むのであれば「商道徳」というものを考えるべきだろう。商業は錬金術ではないし、盗品売買でもない。虚業家が手慰みに弄んで良い言葉ではない。

キミが萌え豚と軽蔑するオタク文化とはね、実態のない芸術と、それで生きるしか無い芸術家達を、「実業」として現実に存在させるために生まれたものだ。
幼稚な妄想で全能感に浸るだけなら誰でも出来るよ。それはアーティストとは呼ばない。


「神」は定義が確定していない単語なのだから、観念かどうかとか関係無しに主観的で曖昧になるのは当然です。
それかもしそういう意味でなくこのコメントをしている人の頭は実はとてもよいのだろうという好意的な解釈に基づき、例えばカントの「悟性」について議論している日本人とアメリカ人がいたとしてその間で「悟性」についての二人の認識は主観的で誤りを含んでいるのではないか、という問題意識だった場合にも一応は言及しておきます。
すっごいめんどうなのでやっぱりやめました。
適当に分哲でもポモでもいいので読んでください。
たぶんググっても答え書いてあります。
「反復可能性」「イデア的同一性」がポモンセンスへの検索ワードです。
初めから言ってるように定義付けをしっかり行ってから言葉を選んで批判しましょう。

後半はいつもの浪花節みたいなものなのでスルーです。
やっぱり言及します。
どう読んでもオタクは前の記事での論旨と同じように表現根本への問いかけを行ってこなかった「怠慢がある」と言っているようにしか聞こえません。
で、日本人自体がそういう頭を使うのが苦手だし理解すらできていない、と。
その問題についてはモダニズムの不在として指摘済みで、改めてまた批判しろということですか?それとも自己紹介?
あと商業ではなくて「商業性」です。商行為また利害関係や倫理的振る舞いまで含んでラディカルな性質の「商業性」に還元しています。
倫理的な意味での戦争や、あるいは商道徳のようなもの、またこうしたdisや煽りも含んでいます。
あとどうやらその「アーティスト」は現代アートにおけるアーティストという概念とは違うようだから、オルタネティブになるような現代アート以上の体系を持った「真・芸術」を作ってくれれば僕もその主張に同意しますよ。
二度目です。定義付けをしっかり行ってから言葉を選んで批判しましょう。




ちょっとだけ愚痴コーナーです。
やっぱりやめました。
今後は少しまじめにやろうと思います。
クリエイター系の人とかにフォローされてその上で興味をもたれると、
しかもその視線が普通に冷静だったりすると居心地の悪さがあるのです。
やめて!そんなこと言わないで…!まるでわたし一人がバカみたいじゃない…
いいや!何度だって言うさ!僕にとって君は興味深い!(抱きついてくる)
えっ… やめてよっわたしっこれじゃ本当にっ… ぐすんっ…(胸に顔を埋める)
やめないよ。ほら、触ってごらん、これが僕の本当の気持ちだよ(手を取り股間へと)
あったかい

普遍性について――現代アートはもう概念そのもので「女神まどか」なんです。オタクだって救えるんです。【謝罪文☆付き】

ポモソーシャル宣言2010

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まず、謝罪の前に、ふたば及び、オタクの皆様にお知らせしたいことがございます。

この度、オタクサイドに理解して頂きたいのは、
“僕がここ1週間仕事が忙しく、風俗に行けていない”という事実であります。

そんな状態で僕がオタクのあられもない振る舞いを見れば、安全に痛いやつらとカン違いし、
パーロンしたくなることは、不可抗力としか言いようがなく
「あらあら、いいですね。」と、最終的には炎上1回ツェーキジ(1記事)でなんとかなるかなと腹をくくった所存です。

その旨、何卒ご理解くださいますよう、この場を借りて切にお願い申し上げますと共に、
今回の一件は、温かく見守って頂きますよう、重ねてお願い致します。


                              オタク兼アーティスト・世界の末代葉児

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オタクはめちゃめちゃにホロン部

 さて、ページ頭で禊ぎは済ませたので心機一転、またオタクとアートについて批評しようと思います。はてブや米欄の見渡すばかりのお誹りから推測して、前回さらっとしか触れなかったところにまず補論を付け足します。ここが理解できるだけで恐らく前回の記事の8割は把握できるかと思います。

 この『商業性』という用語はアート界隈において恐らく僕が初の使用です。今まで読んだ論文や書籍には無かったものの諸概念を還元させる意味で使っています。*1だいたい一般人が素朴に使う感じの「商業性」という言葉と意味は大差ないのですが使い方がちょっとひねくれてます。なのでアートにリテラシーのある人からすると違和感があるかと思いますが、あくまでこの記事は初心者〜上級者向けなのでご容赦を。*2


オタクとアートのおさらい

 簡単に美術史と前回のおさらいです。

 アートは例え何世紀遡ろうと、21世紀になってからでも視覚に頼った表現です。カウンターとして全身で体験するようなインスタレーションもありますが、大雑把に言ってやはり視覚です。アートがまだ"芸術"だったプレモダン(19世紀以前)では、写真の登場まで見たままの視覚情報をリアルなまま絵画に閉じ込めることが課題で、写真以後も大雑把に言ってやはり主観的な視覚の表現ではありました。ここで主観的な、というのは例えば印象派がどれほど現実と乖離した鮮やかな絵を描こうと自らのインプレッションの表現であれば作者の主観として留まるように、またポロックやステラのような抽象表現主義*3においてさえ否定できない主観の介在、見る角度やまた照明の具合など諸条件が紛れ込むのです。この時まではアートにおいても表層が本質と同義でした。

 前述のように主観が紛れ込むのであれば、それは純粋では無いので基準として使えません。要するに持ち主によって誤差の出るような温度計のことを果たして温度計と言っていいのか、純粋な温度の計測には使えないのではないかという問題意識です。なので主観を超えたところ、「観念」に基準がシフトします。

 例えばデュシャンはただの便器であっても「文脈」*4によって――「なぜこれがアートなのか」という説明によってどのようなものでもアートになり得ることを告発しました。*5つまり主観を超えた「観念」が表層よりも上位のヒエラルキーに置かれるようになったのです。ここからアートは全て、オタクの人達が"大っきらいな"「コンセプチュアル・アート」になります。


 さて、重苦しいアートの話を置いてオタクの歴史を振り返ってみましょう。

……あ、そんなものありませんでした。気にせず次にいきます。


「アニメはただの絵」ですらない論証。アヴィニョンの娘たちちゃんがこっちを見ている!

  ぬるオタどもは「基準なんていらない楽しければいい!」なんてブヒブヒ言っちゃうけれど、こういう思考の停止を起こさないようになるべく優しく説明する。
 オタクの人はたぶん印象派までは理解できるはず。なぜなら当時の印象派は金持ちのパトロンから離れようとするアヴァンギャルドだったから、そのために新しい金蔓として市民に媚びて売れ線を狙っていた部分がある。

 ちなみに、アートに詳しい人に「アートにめっちゃ興味あって、印象派展に行きたいんです!」って言うと喜ぶフリをされます。内心で「こいつチョロいな」と侮られるのです。もうこれ鉄板なので女子力を上げたい人は覚えておくといいですよ。

 話を戻して、印象派からその先にいるような例えば抽象表現主義ポロックやステラになると問題意識を共有できていなければ正しく評価できない。絵の具をただまき散らしただけの作品や、あるいはミニマルな白線を黒板に描いただけの作品がなぜ重要なのか。前章でも軽く触れたように「基準」の策定という問題。もちろん後々「基準」そのものを問題視するけれどもとりあえず置いておく。(カオスラウンジ論としてそのうち、たぶん語る)
 重要なのは普遍性。柔らかく言えばどんな時でも誰にでも理解可能なこと。*6この普遍性を求めるということは表現の根本に関わってくる。抽象的で哲学的な話をすると、例えば何かを表現する時に相手のことを想定しない表現はありえない。りんごの絵を描こうと思った時には自分だけでは無くて他人が見てもりんごに見えるよう描かれる。あるいはユニコーンのような架空のものでも同じ。もっと極端に絵の具をまき散らした意味不明な絵であっても、「絵の具をまき散らした意味不明な絵」としての理解を想定した上で描かれている。どんな表現も完全に100%まで独りよがりに行うことはできない。
 表現作品を評価する基準とは、大きく言えばこの普遍性になる。何が最も普遍性のある基準になり得るのか、という時代ごとの葛藤がそのままブレイクスルーなアートの発展を意味する。例えば19世紀であれば写真の登場によってリアルさは基準になり得なくなり、20世紀前半でデュシャンによって視覚は基準になり得なくなったように。
 その上でフラットな視線からポロックやステラを評価するならば、少なくとも当時においてその「基準」に対して最も『誠実な』回答を示した。しかしモダニズムが『未完』のまま過ぎ去り現代アートになった瞬間に、普遍性の追求というレースにおいて後れを取りただの遺物と化した。今となっては何の価値も認められない。モダニズム絵画は「ただの絵」。


 それではオタクにおけるこのような表現根本への問題意識を語る。

……あ、そんなものありませんでした。気にせず次にいきます。


↑ 印象派が好きそうなちょろい人

「楽しければいいんだよ!」→バカ・DQN 「普遍性を求め、みんなで基準を作ろう」→イケメン

 前章の内容を引き継ぎ、オタク絵は「ただの絵」ですらなくただ気持ち良いだけの麻薬やその類いであることが示された中で、どのような将来像や批評の可能性があるのか。再び「普遍性」というテーマで続けます。

 どうせ話について来てなさそうな中年オールドタイプ・オタクは放っておいて、僕らニュータイプのオタクが代わりに考えましょう!
 はい、そこ嫌そうな顔しない!それじゃあ友達と二人組つくってね〜。うわあああああああ(トラウマ)

 再開します。

 前章で意図的に語らなかった部分がある。「印象派以前」という史観をとった場合に見えてくる前時代的な世界について。基準らしい基準は無く、この近代的発想な「普遍性」すら生まれる前の世界。ここに強いて暗黒時代というレッテルを貼る。技術的進歩はあくまでも商業性に回収されパトロンを喜ばすだけのものだった。
 オタクの現状はここにある。たしかに技術だけで普遍性を求めることが可能な領域はある程度までならある。そして既に示された限界が抽象表現主義、フォーマリスムだった。どうあっても超えられないのがわかっていながら、コンセプチュアルな領域にまで一足飛びで昇華することもできない。欧米でこのコンセプチュアルへの移行という大事業が為されたのはそれ以前に「網膜的」だったアートへの退屈と疑義があったため。オタクにはそんな力なんてない。日本が敗戦した時から一歩でも進んだのだろうか?それどころか、歩いている方向の指標となり得る基準すらもないまま、半狂乱の貪欲な消費とその無根拠ゆえのエンドレスループだったのではないか。

 結局のところオタクコンテンツには食欲的に群がる萌え豚しかいないのだ。人間らしい理性的な人間は一人もいない。ブログや2ちゃんねるツイッターでもいいんだけど君たちの周りで「楽しければそれでいい」という"無根拠な理屈"を深く考察して、掘り下げている人っているの?いないだろ絶対に、広大なネットの海ですら一人もいない。あるいは素朴に相対主義っぽいこと言うくせに、一つの理屈としてこの無根拠を正当化するかもしれないがそれではただのカルト教団だ。力のある古参オタク教祖が「良い」と決めたものが密教的な共通理解で信者たちも「良い」と無理矢理に感じたことにされる。無根拠をそのまま正当化し絶対視するとはそういうことだ。一部の人間にだけわかるように作られ、わからなければセンスがないと断じる。それに比べればアートは誰にでもわかるよう普遍性を求められ、その「コンセプチュアル」の理路を追えば誰にでも理解し得る。萌え豚だから人間の言葉をしゃべれないってわけ?

 
 しかしながら同時に、オタクには途方も無い暴力性があるのは事実。ひたすらこの無根拠のループを極めに極め、蓄えられた力で魔女化して世界を滅ぼせるのではないか。現状ではまだ足りないかもしれないが、アートを取り込むにせよ反発し合うにせよオタク文化の続いている限りは可能性がある。
(流れでdisるけれど、中途半端に日本の暴力性を肯定するだけ肯定してろくに論証もせずほっぽり出した椹木野衣はぬるいと思ってる。)

売り豚と商業性、本当に正しい今期の覇権アニメは何か

 それでは、もしかして普遍性のある基準として「売り上げ」は極めて優秀なのではないか?という問題。つまり「売り豚」について語ろうと思う。恐らくこの売り豚の発生は日本にモダニズムが無かったゆえに、つまり普遍性を求めようとしてこなかった歴史ゆえに生まれた極論的カウンターなのだ。

 前章で触れなかったが「本当に良い作品は誰にでも伝わる!ワンピース最高!」ってマジで言っちゃう人の登場も、ここに起因している。

 普通のアニオタ、あるいはヤマカンや思想界隈でも手を焼く問題。誰一人として未だに正答を出していないのではないか?
 この「売り豚」は君らオールドタイプなぬるオタへの復讐心を滾らせている。彼らは革命を望んでいるのだ。
 彼らがニュータイプとして君臨したならばオタク文化は崩壊に進む。
 放置した責任をいったい誰が取るのか?

……ちょうど良い機会だ! 僕が「売り豚」どもを解体して三枚に卸してやる!!

ttp://yaraon.blog109.fc2.com/



ということで次回の記事に続きます。


(普遍性についてだけで長すぎた。次はちゃんと『商業性』について論証する。)

*1:村上隆が「ビジネス」という言葉でアートを語っていたもののちょっと洗練されてないので「○○性」にまで還元。というか近い用語の使われている論文か書籍があったら教えろください

*2:あとアカデミックな界隈と心的距離感を感じてるので。じゃなきゃこんなブログやってない

*3:絵の具をまき散らしてみたり幾何学描いてみたり、実際には存在しない抽象的なものを描く主義。昔はすごい強かった。ちなみに世界一高い絵画はこのポロック

*4:この言葉の正しい理解は難しく、ほとんどのオタクが躓く。あるいは誤解したまま突き進んで半可通としてアート批判を始める。

*5:またデュシャンは「網膜的な芸術」という批判の言葉も有名です。

*6:ただしあくまで潜在的な話